● お父さんの棒

(「グミちゃんとおとうさん」 illustrated by Kazumi)
あれは小学校1年生の頃。
学校から帰って来て、ランドセルを背負ったままトイレに行った時のこと。
おしっこをして、さあ立ち上がろうとすると、
ランドセルの重みで体が前のめりに倒れ、
ランドセルからドサドサっと、何かが落ちた。
「あああああああ!!!!」
当時のトイレは汲み取り式。
便器の下をのぞくと、汚物の海に混じって
ノートがプカプカ浮かんでいる。
「お、お、おとうさーん!!」
私は真っ青になって、店で仕事をしていた父を呼びに走った。
「どうしたんや?」
父は自転車の修理をしながら、いつものように
のんびりした調子で答えた。
「ノートがお便所に落ちてしもた!」
そう言うと、私はワンワン泣き出してしまった。
「えらいこっちゃな」
父はすぐにトイレに行き、
便器の下をのぞくと、「あ〜あ」とおかしそうに笑った。
そしてどこかから長い棒を持って来ると、
汚物の海に浮かぶノートをたぐり寄せ、
ひょいっと持ち上げた。
「ほら、取れた」
ワンワン泣きながら見ていた私に、父は、
「泣かんでもええ、泣かんでもええ」となだめてくれたが、
ノートは汚物まみれになって、もう使えそうになかった。
「しゃあないなあ。またノート、買うたるさかいに、
次からは気つけてお便所行くんやで」
そう言うと、父はその棒をトイレの外にあった水道で洗うと、
そばに立てかけて仕事に戻った。
それからしばらくして。
私はまた同じ事をしでかした。
ランドセルを背負ったままトイレに入って、
立ち上がった時にランドセルの中身を、
便器の下に落としてしまったのである。
でも父は笑いながら、この間の棒を使って
ひょい、と便器の下から拾ってくれた。
そして、笑いながらこう言った。
「またカズミは同じ事をするかもしれんから、
お父さん、この棒、ここに置いとくわな」
父の予言通り、私はその後何度も便器の下にものを落としては
父に拾ってもらう始末だった。
そのたびに母に、
「なんでランドセルを下ろしてからお便所に行かへんの!
それに、ランドセルにちゃんとフタをしとけば
中のもんを落とさんですむやろ!?」
と、どやされるのであるが、これが全く学習しない。
「失敗しても全然学習しない癖」はこの頃からすでにあったようだ(^^;)。
でも、どこかノンキで私には甘かった父は、
決して叱るでもなく、
「あーあ、またかいな」と笑いながら、
例の棒で拾ってくれるのだった。
さて昨日の父の日。
トイレに行った時に、ふとこの事を思い出した。
ランドセルからモノを落とした時の「どうしよう!」という
心臓が止まりそうな気持ちや、
父に甘えるように助けを呼びに行った時のこと、
そして「またかいな」と、いつもの棒を持って
トイレに向かう父の優しい笑顔。
もう40年も前のことなのに、ありありと目に浮かぶ。
その父が亡くなってもう15年が経つ。
生きていたら、この話をして大笑いするのになあ、と思ったら
思わず目がジーンと熱くなった。
父の日に寄せたささやかな思い出話である。


